木上益治の雨、境界、そして空を見上げる少女の瞳に映る……

「わたし、雨の日は好き。みんなと同じ空を見上げることができるから」

これは『MUNTO』の主人公・ユメミが物語の最初に語るモノローグだ。後に『空を見上げる少女の瞳に映る世界』と改題され、TVシリーズが放送されたことからも分かるように、空を見上げることに込められた意味、そして「雨」という異世界との境界を匂わせる象徴的なモノローグだった。

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小林さんちのメイドラゴン』第6話のラストシーン、土砂降りの雨を眺めてカンナがつぶやく。「わたし、雨好き」。ハッとさせられた。思えば本作も異世界と繋がった少女(ドラゴン基準で)の物語だ。ああ、つまり今回は『MUNTO』の木上益治(三好一郎名義で参加)が描く雨と境界の話だったのか、と。

第6話「お宅訪問!(してないお宅もあります)」はカンナ、トールら「小林さんち」のドラゴンとルコア、ファフニールら「よそんちでお世話になっている」ドラゴンそれぞれのコミュニケーションを主題とし、「水」を効果的な“橋渡し”として用いたエピソードだ。

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たとえば、アバンタイトル。才川とカンナの帰り道。小林さんに買ってもらったのだろう赤いリボンの付いた長靴で水溜りを楽しげに踏み、遊びに行く約束をするカンナ。本編、トールたちに仲介を頼むも、なかなか縮まらない翔太との距離をお風呂で(直接的に)深めようとするルコア。人間を嫌っているのに、雨の中、滝谷と一緒に出掛けるファフニール。どこでも水が媒介となっている。これはじつに「MUNTO的」で「木上チック」だと思った。メタファーも散りばめられ、中でも何度か描写される小林さんちのベランダの手すりにできた水溜りは秀逸。幅広の手すりは分厚い人間とドラゴンの境界を示しているのだろう。そこに少しずつ雨水が滴り、広がった水溜り。ここにも橋が架かっている、と解釈しても面白い。

またいつも以上に粘っこい動きも目を引き、ポージングやカメラワークの設計にもらしさがあった。とくに小林さんがてるてる坊主を吊るすカットは凝っている。まず川、道路という「境界的なもの」を映し、カットを割らず横へPAN。手すりの水溜りを挟み、小林さんちのベランダへカメラを固定。さらに小林さんが立ち上がる芝居に合わせて付けPAN、窓際でてるてる坊主を吊るすまでワンカットという濃い内容だ。

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長い横PANはカメラを振る距離の分だけ「ふつうの世界」と「小林さんち」を隔てる意味があり、付けPANには窓ガラスを人間とドラゴンのフレームとする狙いがあるのだろう。「ソファを越える」という縦の動きも効いている。しかもこの幕間劇は「空を見上げる少女の瞳に映るてるてる坊主」で締め括られるのだから、たまらない。まさしく木上益治のモチーフだ。

もっとも、本作にかぎらず、京都アニメーション作品では雨に関連するモチーフをよく見かける。

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近作に絞ってみても『響け!ユーフォニアム』OPがそうだし、『無彩限のファントム・ワールド』6話など、水溜りから異世界へ飛び込むシーンがあったほど。その視点で見れば、今回の『小林さんちのメイドラゴン』は本家本元によるセルフオマージュと言ってもいいのかもしれない。勿論、そういった意図が作り手にあったのかどうかは知る由もないが、マスター木上によるマスターな仕上がりのフィルムであり、山田さんの「全力で後輩を潰そうとしてるのかと思いました」という言葉(byアニメスタイル007)がふたたび脳裏をよぎるくらい、パワフルな仕事だったことは間違いない。そんな木上益治に「雨とその空を見上げる少女」をいつかまた、描いて欲しい。

 

 

『亜人ちゃんは語りたい』4話の雨と演出

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こんなドラマを作るアニメだとは思っていなかった。

TVアニメ『亜人ちゃんは語りたい』は普通の人間と異なる、ちょっと変わった体質を持つ「亜人」の過ごしている世界を描いた作品。「亜人ちゃん」(デミちゃん)特有の悩みや葛藤を生物教師であり、亜人に強い興味を持つ高橋鉄男が聞き、手探りながらも共に考えていくという物語だ。

第4話「高橋鉄男は守りたい」はこれまでになく踏み込んだ内容だった。亜人ちゃんのひとりである雪女の日下部雪が同級生の女子から陰口を言われ、傷ついているところからスタートする。それに伴ってか、演出もドラマ仕立てでついつい「語りたく」なってしまう。

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冒頭から雰囲気は重苦しい。いつ泣きだしてもおかしくない不穏な曇り空のファーストカット。つづいて映されるのは負のイメージの連鎖だろう、コツンと音を立てる傘の石突。地面スレスレのカメラが嫌な気配を残す、「人を傷つけられるもの」という巧妙な陰口のメタファーだ。ことの深刻さをさり気なく煽っている。

場面はすぐ校内へと移り、張り裂けそうな思いを抱え、生物準備室にやってきた日下部雪の不安を切り取る。このシーンの主役は雨音。カメラは準備室の中に入っているのに降り出した雨音は大きく、「外」の音がする。不在の生物準備室、つまり頼るべき人間のいない心許なさ、ひとり外に放り出された心境を表しているのだろう。カットが切り替わり、雪の放つ冷気に気づいた高橋が近寄ると雨音は屋内のものになるが、「わたしが亜人(デミ)だからですかね!」と雪が叫ぶと、一瞬音が止み、カメラも拒絶されるように外へと出され、ふたたび激しい雨音が耳を打つ。精緻にコントロールされた音の心情演出だ。

そして一旦落ち着き、高橋とサキュバスの数学教師・佐藤早紀絵が食堂で話す場面へ。ここで重要な役目を果たすのは、雨と馴染み深い色とりどりの紫陽花。

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「七変化」と呼ばれるほど花色の変わる紫陽花は、土の酸度によっても色が変化し、さまざまな花言葉を持っている。映像表現の定番として、おそらく紫陽花の色が4人のヒロインに対応し、花言葉も合わせてあるのだと思われる。加えて、亜人が陰口を言われてしまう現在の状況や亜人をとりまく社会環境のアレゴリーを紫陽花の性質に掛けているのかもしれない。大きな胸で高橋に迫る早紀絵のコミカルな一幕もあるが、鋭い茎の切り口からはわずかに悪意が滲み出る。

閉塞感のある流れを打ち破るのはバンパイアの少女・小鳥遊ひかりだ。高橋の入れない女子トイレで陰口を言った同級生2人に直接ぶつかる。ここでもまだ雨音のSEが小さく入っているのがポイント。感情が昂ぶり、ひかりの涙がこぼれるとき、雨音は止むのだ。その涙を受けて止めていたのは妹の小鳥遊ひまり。心に降る雨を受け止める傘、というモンタージュが雨上がりの空と共に浮かび上がる。清々しい作劇だ。

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そこから傘を差していたひまりへとフォーカスを移す構成も自然でいい。後半はいつもの調子に戻ってコメディ色が強くなるが、『僕だけがいない街』風シネスコサイズの画面が登場するなど、演出家の遊びに微笑ましくなるシーンもある。

第4話の絵コンテ/演出を担当したのは、新鋭・石井俊匡。サスペンスフルなドラマの運び、したたかにしのばせるメタファー、定式的な「悲しみの雨」に浸からない演出の数々。ドラマティックなムード作りは精彩に富む。そろそろさすが、と付けて呼んでもいい頃合だろう。さすがは石井俊匡。さらなる飛躍に期待大。

 

 

『魔法つかいプリキュア!』大学生編の叙情性

プリキュアにおける、ひとつの記念碑を見た思いだ。

魔法つかいプリキュア!』49話「さよなら…魔法つかい!奇跡の魔法よ、もう一度!」は大傑作だった。デウスマストとの壮大なスケールの戦いに決着をつけるクライマックスに相応しく、全編見ごたえたっぷり。大胆なカメラワークと豪快なアクションで畳みかけるAパートもすばらしいが、抜きん出ているのはやはり、「大学生になったプリキュア」を初めて正面から描いた後半Bパートだろう。

ここで描かれているのは、言わば「ふつう」に戻ったみらいの健やかな日常だ。

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朝、元気よく家を飛び出し、満員電車に揺られ大学に通う。カタツムリの列車に乗ったり、悠々と「箒」で空を飛んだりすることはない現実的な通学風景だ。大学では真剣に勉学に打ち込み、中学時代からの友人にも自慢されるほどの優等生になっている。そして家に帰るとすぐに家事を手伝う、家族思いで家庭的な娘に早変わり。女子大生・朝比奈みらいはまっすぐ成長し、溌剌とした健康的な毎日を過ごしているように思える。けれど、その健やかさにカメラは寄っていかない。ロングショットを主体とし、前を向いて歩き続けるみらいの足もとを繰り返し捉える。

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このロングショットに潜んでいるのは、一抹の寂しさだ。喋らなくなってしまったモフルン、リコやことは(はーちゃん)の居ない日常を受け入れているように見えても、本当はどう思っているのか。距離をおいたカメラと憂いを帯びた表情によって、心の内が静かに語られていく。

足もとのショットも示唆的だ。前を見て、「未来」に向かって歩く。周りの友人たちもそうだ。けれど、同じ歩幅で歩いていても、少しずつ歩調がちがってきている。同じ道から枝分かれしていくそれぞれの未来。そんな風にも見えてくる。

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だから十六夜の月の下、あのリコと出会った公園の道を歩くみらいの姿は、まるでリコと自分の未来がまだ重なっているかどうか、たしかめるようでもあった。感動的なのは、その「未来」が再び重なり合う象徴として、足もとのショットが繰り返しインサートされていたと明瞭に演出されていることだ。大樹を前に木の棒をかざし、「キュアップ・ラパパ」と唱えても何も起こらない現実を前に一度は打ちひしがれ、「ふつう」の道を歩き出そうとしたみらいが振り返り、小さな奇跡を信じて走り出す大きな一歩。絵コンテのみの参加ではあるが、大塚隆史演出のきらめきを改めて知った思いだった。

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作画やキャストの演技も負けていない。大塚隆史と数々の名場面を作り上げてきた川村敏江を始め、プリキュアの歴史を感じさせる原画陣、キャストでは何といってもみらい役の高橋李依だ。泣きの芝居の最後、「リコに、みんなに……会いたい」というかすれ声の繊細さは、役者の深い思い入れを感じてしまった。台詞回しも憎い。みんなに会いたい、と続けさせて、最後の最後にリコに、と言わせる。リフレインの叙情性が極まった瞬間だ。

個人的に嬉しかったのは、ぴえろ魔法少女シリーズの第3作『魔法のスター マジカルエミ』を彷彿とさせる心情描写が見られたこと。日常からこぼれるわずかな寂しさや切なさを台詞に、情景に、叙情に滲ませる。そして表出する恋しさ、感傷……「魔法を手放した少女のその後」を描いた一編(『蝉時雨』を思い出したファンも多かったのでは)としてもたまらない感慨があったし、そこに漲る緊張感は同種のものだった。もっとも『魔法つかいプリキュア!』は手を放したまま終わらない。もう一度、ぎゅっと手を繋げるアニメだ。「プリキュア」のシンボリックなモチーフであり、本作においては「魔法」を仲介する意味もあるみらいとリコの結ばれた手へと、“飛んで”帰着する構成の美しさ。もしかしたら、シリーズの重要な節目になるのかもしれない。そんな予感さえ漂う、ファンタスティックなエピソードだった。

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